「なんだか、素直に応援できない」 「言っていることは正しい気がするけど、何かが違う」
元フジテレビアナウンサーでタレントの渡邊渚さんの発言や写真集を巡る騒動を見て、そんな「言葉にできないモヤモヤ」を抱えていませんか?
渡邊渚さんはインタビューで「私は間違ったことは言っていない」と強く主張しています。
しかし、世間の反応は冷ややかです。
なぜ、渡邊渚さんの「正論」は私たちの心に響かないのでしょうか?
その正体は、単なるアンチ感情ではなく、渡邊渚さんの言動に潜む「3つの論理的矛盾」にあると考えます。
この記事では、あなたが感じている違和感の正体を徹底的に言語化し、スッキリ解消します。
結論から言えば、私たちが感じるモヤモヤの正体は、渡邊渚さんが「成立しない理屈(無理)」を押し通そうとしている点にあります。
「言っていること」と「やっていること」の間に、埋めがたい溝があります。
渡邊渚さんの主張を要約すると、以下になります。
「私のことは見てほしい。でも、私の意図しない見方は許さない」
これこそが、最大の違和感の原因です。
写真集である肌を露出した作品は、商業的に「見られること」を目的とした商品です。
世に出した以上、受け手がそれを「美しい」と思うか、「セクシーだ(性的だ)」と思うかは、受け手の自由です。
それなのに、渡邊渚さんは「性的意図は一切ない」「エロではない」と強調します。
これは、ステーキ店で極上の肉を出しておきながら、「食欲を感じるな、芸術として見ろ、シェフの情熱を感じろなど」と客に強要するようなものです。
「露出の多い商品を売っておきながら、性的に見るなというのは無理がある」 これが、多くの読者が抱く偽らざる本音ではないでしょうか。
「聖なる決意表明」と「商業的なエロ要素」。
本来混ざり合わないものを、自分の都合でごちゃ混ぜにしている点に、私たちは身勝手さを感じ取っているのではないでしょうか。
渡邊渚さんはインタビューで、批判的な意見に対し「知らないくせに」「声の大きい人がマジョリティだと思わされている」と反論しました。
ここに、巧妙な「論点のすり替え」があります。
私たち読者の多くは、「写真集を出して対価を得る」という「ビジネスのやり方」に疑問を持っています。
しかし渡邊渚さんは、その疑問を「性的搾取を肯定する人たち」という巨大な悪との戦いにすり替えています。
「私のやり方に文句がある人」=「事情を知らない悪者」。
そう決めつけることで、対話を拒否しているように映ります。
高尚な精神論や社会問題を盾にして、自身の商業活動への批判を封じ込めようとする姿勢が「カモフラージュ」のように透けて見えてしまい、反感を買ったのだと考えます。
最もシンプルな疑問が「自分への決意表明なら、なぜ売るの?」です。
「自分自身を愛しているから残したかった」「私自身への決意表明」。
その渡邊渚さんの動機自体は、素晴らしいものです。
しかし、それならば個人的に撮影して、手元に残せば済む話でしょう。
それをあえて商業出版し、他人に3,000円以上のお金を払わせる。
そこには明らかに公私混同があります。
「見てほしい(承認欲求)」けれど、「私の望む見方しか許さない(支配欲)」。
この板挟み状態のまま商品を投げつけられた読者は、「私たちはお金を払って、あなたの自分語りに付き合わされているだけ?」という抵抗感を抱いてしまいます。
イベント直後にモデルプレスのインタビューに応じ、ネット上で話題となった自身への批判や発言、写真集を巡る騒動への心境を語った。
引用元:Yahoo!ニュース
渡邊渚さんの言葉は、一見すると「女性の権利」や「主体性」を訴える正論のように聞こえます。
しかし、なぜか空虚に響きます。
それは、そこに「都合の良い自己愛」が透けて見える感じがするからです。
渡邊渚さんは「私の体は私がコントロールしている(主体性)」と語ります。
しかし、世間から見ればそれは「消費されるコンテンツ」です。
商業ベースに乗せて利益を得る以上、そこには「消費されるリスク」も伴います。
それなのに、渡邊渚さんは「お金や知名度は欲しいけれど、性的に消費されるのは嫌」という、究極の「いいとこ取り(ダブルスタンダード)」を主張しているように見えます。
「自分で決めたことだから、何でも許される」わけではありません。
その覚悟のなさが、言葉の重みを奪っていると考えます。
「売春は買う側にも責任がある」 「ネットでは声が大きい人の意見が普通だと思わされる」
渡邊渚さんの発言の端々には、常に「悪いのは私ではなく、相手や社会」という他責思考が見え隠れします。
自分の説明不足や戦略ミスを棚に上げて、「社会が未熟だから私が理解されない」というスタンスを取る。
これは、本来渡邊渚さんを応援したかった層すらも、「敵」とみなして遠ざける行為です。
「可哀想な私」をアピールすればするほど、世間は「いや、自分で選んだ道でしょ?」と冷めていくでしょう。
この悪循環に、渡邊渚さん本人が気づいていないことが、見ていて一番の「モヤモヤ」ポイントなのかもしれません。
渡邊渚さんはどうすれば炎上せず、応援される存在になれたのでしょうか?
実は、たった一つの「視点の転換」があれば、世界は変わっていたかもしれません。
もし渡邊渚さんが、エロ要素を全否定せず、こう言っていたらどうでしょう。
「肌を見せる以上、性的な魅力として見られることも理解しています。それも今の私の一部ですから」
このように、客観的な視点を持っていることを示せれば、「わかっている人だ」という信頼が生まれたでしょう。
「見るな」と禁止するのではなく、「どう見られても構わない」という大人の潔さこそが、タレントには必要だったのかもしれません。
最後はこの言葉です。
「批判があるのも覚悟の上です。それでも、病を乗り越えた私の『生命力の証(エロス)』を見てほしかった」
「エロではない」と言い訳をするのではなく、それを乗り越えてきた「生き様」としてアピールします。
他人のせいにせず「私が全責任を負う」という姿勢を見せていたらどうでしょう。
もしそう言えていれば、私たちのモヤモヤは「プロ根性への敬意」や「復活への称賛」に見かたが変わっていたでしょう。
渡邊渚さんへのモヤモヤの正体は、「見てほしいが見るな」という矛盾、批判者を無知と断じる攻撃性、そして公私混同にありました。
商業活動をする以上、「どう見られるか」を受け手に委ねる覚悟が必要です。
「社会が悪い」ではなく「全て私が選んだ」と言い切れた時、渡邊渚さんは本当の意味で輝き直せるのかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。